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ニュー・オーダーとジョイ・ディヴィジョン、そしてぼく

- マッドチェスター・ムーブメント、ハシエンダ文化史 -

 


UKニュー・オーダーのボーカル、ギター、エレクトロニクス担当、

バーナード・サムナーの自伝。

1956年、UKマンチェスター生まれ、61歳、1976年結成の

ジョイ・ディヴィジョンから40年、今もコンスタントにアルバムを

リリースしているマッドチェスターのバンドはニュー・オーダーだけ

になってしまった。

 

ワールドカップのイングランド代表の応援歌を手掛けたり、大規模な

フェスティバルのヘッドライナーを務めることができるバンドに成長

したのは、ジョイ・ディヴィジョン時代の遺産だけでなく、彼自身が

優れたコンポンザーであり、エレクトリック・サウンドメーカーであ

った証拠である。歌唱力とギター演奏は、ほぼ素人の域を出ていない

のではあるが。


マンチェスターの労働者階級で、決して恵まれた少年時代でなかった

バーニーは1976年6月4日、友人のピーター・フックとセックス

ピストルズのギグを観て衝撃を受けバンドを始める。


ボーカリストを募集して、イギー・ポップ、ヴェルヴェット・アンダ

ーグラウンドが好きという、イアン・カーティスを仲間に入れた。

翌年、ドラマーにスティーブ・モリスが加わり、パズルが完成した。

 

他の3人で曲を作り、イアンが歌詞を書くというやり方で、ジョイ・

ディヴィジョンは次々に曲を作りライブを行なった。結果、79年に

「アンノウン・プレジャーズ」をリリースし注目を集めた。


80年3月よりセカンドアルバム「クローサー」の製作に着手、同年

4月にジョイ・ディヴィジョン最大のヒット曲「ラヴ・ウィル・テア・

アス・アパート」発表、5月18日イアン・カーティス自殺。

7月「クローサー」をリリース。

 

残された3人はバンドを続ける決断をし、ジョイ・ディヴィジョン

の曲はやらないことにした。ジョイ・ディヴィジョンの遺産を捨て、

自分たちでヴォーカルをやることにした。その後ニューヨークの

クラブシーンに触れ、ダンスビート、エレクトロニックを取り入れた。

また、バーニーがシンガーとして歌と演奏に問題があったので、

ジリアン・ギルバートが加わり「ニュー・オーダー」となり2000

年まで4人で続けていく。


83年の「ブルー・マンデー」は最も売れた12インチ・シングルと

なり、所属する「ファクトリー・レコード」もマンチェスターの音楽シ

ーンの一大ムーブメントに発展する。レコード会社が経営するクラブ

ハシエンダ」はシーンの中心となり、やがて制御の利かない経営難に

陥っていくことになる。

このあたりは映画「24アワー・パーティー・ピープル」に詳しい。

ニュー・オーダー関連の他の映画としてイアン・カーティスの伝記

映画「コントロール」がある。

 

93年の「リパブリック」をリリースした後、バンドは長い冬眠に入り

各自のソロ活動に専念する。98年、長年連れ添ったマネージャーの

死をきっかけに再集結しレディング・フェスティバルでライブを行なう。

この頃から、ジョイ・ディヴィジョンの曲をやるようになる。


その後もアルバム制作を行うが2001年ジリアン・ギルバート脱退

(~2011年復帰)、2007年ピーター・フック脱退(解散宣言?)

その後メンバー追加し、現在に至る。

 

初期の作品はジョイ・ディヴィジョンに通じる陰鬱さが残っていたが、

85年の「ロウ・ライフ」から「ブラザーフッド」「テクニーク」、

~93年の「リパブリック」までに、バンド活動が軌道に乗り、メンバ

各自が困難を乗越え自信を付け、活動を楽しんでいく成長がよくわかる。


フッキーのリードベースと、バーニーの落ち着かないヴォーカルが

この時期のバンドのカラーを決定付けたといえるだろう。

 

現在はギター&エレクトリックサウンドのコンビネーションぴったり

の安定感のあるバンドになっているが、仲直りして80~90年頃の

荒々しいフッキーのベース演奏が聴けないかと、切望するのみである。

 

(2016.01.11)